memorandum

進捗報告&備忘録

虚構の表現について

◆生真面目な話。面白味はない。ただの自戒。


今日は、古の創作仲間と、近頃の日々について、お互いの創作について、表現について、10時間ぶっ続けで通話で議論をした。お互い、話す事に集中していたため、作業は微塵も進まなかったが、得たものは大きかった。

私は、未だに表現について、考えていた。
お互いにお互いの事を、人間としても創作者としてもよく理解しているし、時折支離滅裂な会話になっても、創作において譲れない主義や創作の他愛もない悩みも、今なら話し合いをできると思ったから、私は、腹を括って話してみることにした。

表現について、生真面目な話、センシティブな話、解決策のない話。普段、日常で話さないような話。
自戒の意味合いを込めて、書き残しておこうと思う。


◆虚構
フィクションは、その性質上、「娯楽」と「消費」から逃れることはできない。
想いを込めたとして、情熱を込めたとして、刹那的な「大量消費」の彼方へと消えてしまう。

現実世界を示唆するテーマ、議論を呼び起こすようなセンシティブなテーマ、重く抉るようなテーマ、創作者が情熱を込め伝えたいと思ったテーマ。
いくら発信者が細心の注意を払い、調査に調査を重ね、腰を据えて思考を巡らせ、言葉や描写を慎重に選んだとして、一度発信された創作物は「発信者」の手を離れ、解釈は完全に「受信者」に委ねられる。
その解釈は、「発信者」が意図しない方向へと転換する事もあるし、「あっそ」の一言で終わる事もあるし、咀嚼してもらえる時もある。

誰しもに受け入れられる、あるいは誰にも拒絶されない物語はない、と私たちは話し合った。それは私たちが創るものも例外ではないし、商業作品だってそうだろうとは思う。

たかが虚構…されど虚構。だと私は思う。虚構は何らかの形で現実を反映する。
だからこそ、私は創作を通して、なにかしらに関して「問」を立て、構築したその世界と登場人物と共に「答え」を模索していきたい。
そして、それを、できれば発信したい、という想いがある。弱小創作者だけれど、届く人に届けばいいと思っている。


◆『1968』
執筆中の同人誌『約束の記憶1968』がしっくり来なくて、相談をした。
何かが欠けている。何か、物足りない。読後に、何かが不足している。
ネーム~下書き~コマ割り~写植までの工程が終わっていたものの、私は未だに「問」に対する物語のその「答え」に納得できないでいた。
なにしろ1年前に描いたネームだから、現在の創作観と少し変わっている。

ネームを読んでもらった上で、舞台となる時代背景、私が言わんとしていること、「家族の絆」も「メキシコ史の中のやるせなさ」もどちらにも軸を置きたい、ということを伝えてアドバイスを乞った。
時間をかけて話し合った結果、落としどころが見つかり、大筋は変えずに、ページを若干増やすことにした。
これで、恐らく、「カタルシス」を築けたと思う。「物語」の解釈は受信者に委ねられるわけだけれども、「歴史」の方に関しては時代解説ページをもってしっかりと補足をしたい。


◆残酷描写
「『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』もう一回観たい?」と私は質問した。
「いいや。いい作品だけどさ」という苦笑が返ってきた。
あの二本の映画には、しっかりとしたカタルシスがある。しかし、それに至るまでの生々しい残酷描写の数々の方に意識が向いてしまい、完全にトラウマ…「一回でお腹いっぱい」になってしまったのだろう、という結論に私たちは至った。

企画立案中の自創作『ソロモンの箱』は、舞台の性質上、様々なセンシティブなテーマをを伴う。
「慈善活動に勤しむ女子高生とマフィアの下っ端の青年のボーイミーツガール」…というだけで少しお察しなところがあるわけだが。
私はこの物語を通して「隣人愛」に主軸を置きつつも、「雁字搦めになってしまっているラテンアメリカ」を描きたい、と伝えた。けれど、トラウマになるような話は作りたくない、とも言った。
そのメインテーマである「隣人愛」を描く上で、恐らく必要になるであろう重めのサブテーマを羅列してみた。8つあった。サブとは。
「詰め込み過ぎかな……」と呆れ「そこまでになってしまうと、澤島が描きたい「隣人愛」よりも、きっと直接的な暴力や残酷描写に目が行ってしまって、唯々、抉るだけの話になってしまうよ。あと、澤島が楽しんで残酷描写を描いていると勘違いされかねない。残酷描写は否が応でも目を引くから」と苦言を呈された。
ごもっともである。ぐうの音も出ない。

その上で「サスペンス小説」の話をしてくれた。
サスペンス小説の中には、「状況証拠」のみで、直接の残酷描写がなくとも、「何かがあった」ことを示唆する表現があることを教えてくれた。

例えば、最初に日常生活を描写する。主人公が通りがかるシーンの背景に、教会の前の物乞いがいる。次の日に、日常生活の背景で殺人の報道があったとする。主人公は、また教会の前を通りがかるが、その背景には物乞いがいない。主人公はそれに気づかないが、注意深い読者ならそれに気付くようにできている。
例えば、主人公の住む家の台所から包丁が一本消えている。そして、翌日にたまたま土手を通りがかった主人公は、赤黒い布に包まれた包丁を河辺で見つける。
状況証拠から、「何か残酷な事があった」事実は分かる。しかし、見えていないのでゾッとはするが、直接描写はないため、そこまで抉られはしない。

私は、できれば残酷描写はしたくない。必要でなければしない。実はリョナラーではないのだ。
以前、個人的に残酷で、できれば見たくないと思う描写を、でも必要だから、少しだけ試してみたら、画面端とはいえ、案の定、鮮やかなまでに自爆した。まぁ、自爆してみなければ分からないこともある。もう二度とやらない。

その話をしたら、「直接的な残酷描写・グロテスク描写は、澤島が描きたい「隣人愛」にはぶっちゃけ必要ないと思う。直接描写が無くても、遠回しなセリフや背景の小道具で「あった事実」を仄めかすことはできる。「あったけど見せない」、それで、「答え合わせ」は最後にやればいい」と助言をくれた。
小説は比喩表現でいくらでもガウスぼかしをかけられるが、漫画はどちらかというと「映像」よりだから、どうしても残酷描写が目立ってしまう。
全てを描写したい気持ちは分かるが、全てを描写する必要は無い。そう言ってくれた。

それで思い出したのが、私が好きな映画、『夜明けの祈り(Les Innocentes, 2016)』。
第二次世界大戦後のポーランドが舞台で、修道女が修道院を抜け出し、フランス人女医に修道院へ来るように懇願するシーンから始まる。
……という状況証拠だけで、直接描写がなくとも、「生々しく」「残酷な事があった」ということを察することができる。

そして、『百年の孤独』と『精霊たちの家』。どちらも「ラテンアメリカのやるせなさ」を詰め込み、残酷描写を伴う作品だが、前者が「孤独」を主軸に置いているのに対して、後者は「愛」に主軸を置いている。
私は、読後に、少しだけ気が楽になるような、そういう話が好きだ。

助言の数々を通して、自分自身が好きな描写、を思い出すことができた。
苦手意識を克服するのもいいけど、好きな領域を伸ばした方が楽しいよ、ということかな。

そういうわけで、『ソロモンの箱』は、「真っ直ぐな少女と不器用な青年の交流」に主軸を置き、不必要と思われる残酷描写を徹底的に排除し、「状況証拠」で「あった事実だけ」仄めかし、「最後に答え合わせ」をする方式で行こうと思った。その方が私も気が楽。
しかし『1968』に関しては、暴力描写は必要であるけれど、そこは主軸でないからページ数を割かずに、メインテーマの「兄弟」をもっと強調するようにした。これから一部のネームを切りなおす。

圧倒的感謝しかないし、精進するしかない。スッキリした。



アドバイスしてくれた創作仲間はガチガチの「理論」から構築し、後で「感情」を肉付けしていくタイプの創作者。登場人物への感情移入は全くないから、あまり疲れないらしい。
私はその真逆で、「感情」から始まり、そこからキャラクターの「潜在意識」を精神分析し、「理由付け」していくタイプの創作者。登場人物への感情移入は大いにあるので、とても疲れる。

全く違う論点から、たくさんの事柄を話し合って、「そういう考え方もあるのか」とお互いに発見・再発見をした。
お互いアマチュアとはいえ、表現に関して気を付けねばならないことはたくさんあり、できる限りの配慮はするが、結局は「美しい物語を創りたい」というところに、最終的に落ち着いた私たちだった。

(c) 2017-2020 Yoe Sawashima